2018年7月21日(土) 05:36 遊郭・赤線コメント(0)

武蔵屋さん(漆楼)古河市編②

古河遊郭のあった横山町にある元遊郭で現在は鰻屋の「武蔵屋」さんにて、
お昼ご飯をいただいてきました。
うな重をいただきたかったのですが、あまり得意でなかったため
焼き鳥丼をいただきました。(ごめんなさい)

お店のHPに古河の歴史について時間が合えば説明いたしますとの記載があったので
ランチのピークタイムを避け、
お昼の営業の終わりごろであればご迷惑ではないかなと思い
お会計を済ませ、お話を伺えないか聞いてみたところ
店主の方にお時間を頂くことができました。
古河の歴史や遊郭の成り立ちや武蔵屋さんの歴史についてや
疑問に思っていたことやわからないことを教えていただきました。

「歴史について」

成り立ちについては前回の記事で書いたように
飯盛り女がルーツであり、日光街道における宿場町であり城下町であったため
遊郭での客層は日光街道への道中の人や商人やお金持ち、
一例ですが農家の旦那さんもお金持ちが多かったそうです。
また、当時の国家公務員に当たる武士なんかも内緒で遊びに来ていたそうです。
そのことから、定着した理由は人が多く集まる土地であることや
地方都市であることから物の物流が盛んであったことで
接待などでの需要もあったようです。
最盛期は明治初期に貸座敷は13軒、娼妓は100人ほどで、
当時の地図が店内に掲示されているので場所や屋号を確認することができます。
図書館で見ることや知ることができなかった地図なので、
見たときはとてもうれしかったです。
他にも、武蔵屋さんの歴史についても学ぶことができます。

そして、各貸座敷に7~8人の娼妓が置かれ、
一番の大店であった現「武蔵屋」さん、当時は「漆楼」さんは15人ほどの娼妓がいたそうです。
また、事前に調べていて気になっていた
古河で行われるお祭りの提灯竿もみまつりで料理屋や遊郭は徹夜で営業するほど賑わっていた。
との、ことで何かエピソードをお聞きしたところ
「しゃじき」(漢字がわからなくてごめんなさい)ベランダのようなものを
2階に作ってお客さんと見物していたそうです。
絵も描いていただきわかりやすかったのでありがたいです。

「娼妓について」

遊郭時代この土地で働く遊女は新潟出身の女性が多く自分の稼いだお金で嫁入り道具を揃える習慣があり
7年の年季が明けると、地元に帰り結婚をする女性が多かったそうです。
当時の男性も元遊女であったことを気にする人は少なかっただろうし、
きっと、幸せに暮らせたと思いますよと教えていただきました。
稼ぎについては1年で当時の女性が働いて稼ぐことができるお金が1両だとしたら、
遊女は少なくとも10両は稼ぐことができたそうです。
また、古河遊郭には大門が無かったため、娼妓の脱走は無かったのかお聞きしたところ、
少なかったそうです、やはり、嫁入り資金を稼がないと帰ることができないなどの背景があり
目標を持って働いていた女性が多かったそうです。
余談ですが、武蔵屋さんの店主さんが子供の時にお向かいの元遊郭のお宅に遊びに行った際
娼妓の足抜け防止のため、就寝時は1階から2階に続く階段が上に上がり
天井にぴったりと収まり降りることができない構造になっていたそうです。
想像するだけでも当時の建物の様子などを想像してわくわくしますね。
遊女や水子の供養についてもお聞きしたところ
武蔵屋さんのすぐ裏手の神宮寺で個人の墓ではなく
投げ込み寺のような形で供養されていたそうです。

「貸座敷について」

前回の記事で書いた市史を読んでわかった、貸座敷の遊び方を
少し書きたいと思います。
基本的には引手茶屋で芸妓と宴会や娼妓を招いて宴会をしたのち、貸座敷に登楼していた。
高級で格式が高かったため直接登楼する者もいたそうです。
話が戻りますが、
一番の大店であった現「武蔵屋」さん、当時は「漆楼」さんは遊郭組合の会長でもあったそうです。
そして、娼妓の人数や部屋数も多く10畳が20部屋あったそうです。
現在は改装されているため当時の様子を想像することしかできませんが
名残として、張見世で使っていた部屋?の柱に傷といいますか、凸凹があるよと
教えていただきました。

入浴についてお聞きしたところ、
貸座敷では内風呂をどこも持っていたため銭湯に行くことはなかったそうです。
また、髪結いに関しては髪結いさんが貸座敷に直接来て結ってくれたそうです。
余談ですが、市史によると芸妓は
置屋に恐らく内風呂が無かった為?銭湯に行き
髪結いにお店まで通っていたそうです。
そのため、他の置屋の芸妓とも顔を合わせるので
花街のニュースセンターでもあったそうです。
何カ所か銭湯があった内の1つの亀之湯さんの場所を教えていただきました。(昭和20年まで営業)

また、検梅所の場所も教えていただきました。
茨城県立健康診断所(戦前まではあった)

話がそれましたが、
遊郭組合単独での活動ではありませんが
横山町内会としてお金を出し合い学校や役場を作ったそうです。
横山小学校→古河小学校。明治20年~大正前に廃校。
古河町役場→明治20年~大正2年。

また、時代や世代の交代に伴い転業についてお聞きしたところ、
楼主はお金に余裕があったので勉強し、
貸座敷ではなく世代も変わり料理屋に代わっていったそうです。
古河の料亭二業組合は平成20年まであったので、
恐らく芸者遊びの場所としても料理屋の需要が多くあったのだと思います。

戦後の赤線については
元々貸座敷であった3件が営業していたそうです。

更新日時:2018年7月21日(土) 05:36 コメントする

コメントを残す

コメント

このページの先頭へ